This Boy

26歳のリアル

「間違っている大人」と「正しい自分」

 

「目上の人間」

 

教師だとか、親だとか、上司だとか。

 

自分より、社会的地位が高い人間。

 

それらに対して、人はなぜ畏れを抱くのだろう。

 

「別に抱かないよ。」と言う人もいるかもしれないが、「立場」というのは人間関係の中で非常に大きな要素になる。

 

例えば畏れが「尊敬」からくるものであれば、自分をより成長させるためによいことなのかもしれない。

 

しかし、尊敬もなにもない、むしろ軽蔑すべき人間が自らの「目上の人間」である場合は往々にして起こりえることだ。

 

例えば、「理不尽な親」、「理不尽な教師」、「理不尽な上司」

 

ただ、「目上の人間」である以上、何かしらの畏れは生じる。

 

軽蔑すべき相手なのに、自分を不自由にさせる存在。

 

なぜなのか。

 

確かに、目上の人間というのは実際に、色んな意味で自分より強い。自分より経験があったり、自分より認められていたり、自分より何かしらの能力が高かったり。

 

 

しかし、だからといって軽蔑すべきではないのか。

 

それは、絶対に違うと思う。

 

「間違っている」目上の人間もいるのだ。

 

目上の人間に対して「自分の方が正しい」と思ってもいいのだ。

 

当たり前のことかもしれないが、その環境下でその信念をぶらさずにいることは意外と難しい。

 

しかし、自分の考えは曲げる必要はないと思う。

 

絶対に。

 

レイトタックルを指示する人間が自分の「目上の人間」であったとしても、それに対して「おかしい」と思った自分を絶対に捨ててはならない。

 

声を上げられなくても、恐怖を感じても、自分が自分であることを捨ててはいけない。

 

そんな当たり前のことを阻むものは、許してはいけないし、そんなものからは逃げなければいけない。

 

「目上の人間」だからといって畏れを抱く必要は本当はないのだ。

 

だからこそ、それを阻むパワーが許せない。

 

人としてどうか。

 

自分にとってどうなのか。

 

ただそれだけだと僕は思う。